そのあともうちょっと考えて、場所の問題に限定してしまうと、うまく意図が伝わらないかもしれない、と思ったから書き足します。
人間っていうのは基本的に一人っていうのが本来のあり方だと思う。
常に誰かと一緒に居る自分にアイデンティファイズすると、自分がこうありたいという像と矛盾して首をしめることにもなる。
でも場所や環境によって自分を強く疑うようなら、それを一新してみるのも手だという事を言いたかったんです。
逃げて傷を残すようなら、他人の助力を得て戦うしかない。
ただ、個人を責めても恐らく解決は不可能な場合、“体勢”と戦うしかない。
理性的に戦うなら、個人対集団という構図のままでは説得力を持たないのだと思います。
まずは味方をみつけ、(親や外部機関など)冷静に自分を見つめられるだけの自己評価を取り戻してから、あくまで理性的に直接本人ではなく、周りから説得していくしかないようです(やはり教師など監督責任のある側)。
その際に、あまり無神経な配慮をされたのでは逆効果なので、釘をさしておくことも必要です。
一方的に責められる事に「理由」なぞ本当はないはずですから、閉じられた関係に閉じこもる必要はないと思います。他人という外部の目が入れば、とりあえず閉じられた関係の悪循環からは開放される。
冷静になる機会も得られるわけです。
そしてこうした訴求手段を用いる場合、訴える側が自己評価を下げられた為に、加害者側に許されたい一心で、あるいは復讐を恐れて、(いわばマインドコントロール状態で)加害者側に譲歩して改ざんした事実を伝えたのでは意味がありません。
あくまで自分自身の正直な辛い気持ちを伝え、何に配慮して欲しいかを味方側に正確に伝えなければならず、支援する側もそこに無配慮に感情的になっては解決に結びつきません。
ということでかなり繊細な問題なので、やはり「これでいーのだ!」とは簡単にはいえない。
が、やられた側にとっては勇気はいるものの、うまくいけば確実に「乗り越える」ことが出来るものなんだと知る大きなチャンスでもあるので、外側の中立的な人物の介入はけっこう有効なんじゃないかと思います。(「信頼できる人物」役はその道のエキスパートに頼んだほうが良いかも)
最終的に立場を逆転する、という姿勢ではなく、恨みに思う気持ちがどうでもよくなるぐらい、自分自身に余裕を持てることが出来れば本当の解決だと思います。
そしていじめというサイクルを断つことも出来るわけです。
相手を憎むのではなくいじめを憎む気持ちをもつのが大切。
ちなみに第三者の目、というのは家庭内暴力でもおなじく有効らしいです。
なにやらHOW TOもののコラムみたくなってきたんでこの辺でやめます。
でも実際、こーゆー問題には相当関心があるんで、捨て置けなかったんですな。
自分自身、まだ考え中ではあるんですが。とりあえず。
でわ。